フィリがとてつもなく憔悴した時の話

はじめに

どうもこんにちは。プラタジ&カペー家に関する外国語文献ガバ日本語訳シリーズです。
今日はずっとずっと探していた「ジェフリの葬儀の際、憔悴しきって墓穴ダイブしようとしたフィリ」の記述をついに掘り出した。どの文献を見ても出典がなかったりサラッと触れているのみだったので大変だったが、ラテン語が一番のハードルだった。

出典について

タイトル: “De instructione principum : Libri III”
著者:Giraldus Cambrensis
デジタルアーカイブURL:https://archive.org/details/giralduscambrens03girauoft

出典は”Giraldus Cambrensis”ことウェールズのジェラルドによる「鏡文学」と呼ばれるキリスト教的視点からの君主向け教育書”De instructione principum(君主の教育)”の第3巻より。上記URLよりスキャンPDFデータをDL可能。

一点だけ注意点ですが、この書物の作者である「ウェールズのジェラルド」は反プラタジ家・親フランス傾向が強め……というのを念頭にお読みいただければと思います。

ラテン語原文

 Ad cumulum quoque vexationis pariter ct doloris, paucis postmodum annis, mitigato paulisper temporis beneiicio tanti mceroris incommodo, cum laxata parumper tam inquietudine quam angustia jam aliquantulum respirasset, (quoniam nulla longseva est terrena tranquillitas, et quoniam semper extrema gaudii luctus occupat,) Gaufredus Armoricae Britanniae Comes inclytus, ob discordias similiter inter ipsum et fratrem suum, Pictavise Comitem, Ricardum, super tcrrarum suarum finibus implacabiliter exortas, a patre jam tertio, quia primaevi fratris fautor extiterat, ad Philippum Ludovici filium jam in Francia pro patre regnantem ex toto discessit.
 Haec etenim fuerat Regis Henrici natura perversa, quod summo opere discordias inter filios suscitabat et fovebat, solum sibi ex eorum discordia pacem sperans et quietem. Comes itaque Gaufredus adeo Philippi Regis procerumque Franciae cunctorum sibi jam animos allexerat, ut unanimi omnium voto Seneschallus Franciae crearetur. Qui cum in tanta jam potestate, tantaque Regis familiaritate constitutus fuisset, adeo Francorum Regem totamque Franciam communiter in patrem suum et fratrem verbis persuasoriis, ut erat eloquentissimus pariter et amantissimus, jam excitaverat, ut inquietudinem tantam, quantam, nisi morte preventus fuisset, antea non viderant, eis procul dubio comparasset. Cum etenim jam in armis posita, fundata quidem firmiter sed et inchoata fere turbatio tanta fuisset, Comes Gaufredus eodem quo et frater antea morbo acutissimo, sc, febrili calore, letlialiter correptus, infra paucissimos dies, cum Franciae totius Regisque praecipue dolore permaximo, Parisius circa kalendas Augusti rebushumanis exemptus est. Rex etenim Philippus tanto fuerat in morte ipsius et tam desperabili mcerore confectus, ut in ecclesia Parisiensi cathedrali, viz. Beatae Virginis, et principali quoque coram altari, ab ipso in honoris pariter et amoris signum Comes jussus humari, exequiis jam solemnitate exactis, cum in funebrem fossam terra claudendus extrema demitteretur, se ob vehementiam doloris una cum ipso in tumbctm hiantem nisi violenter a suis retractus fuisset, praecipitare parasset.
 Porro prae omni dolore patris dolor incomparabilis erat ; non enim erat dolor sicut dolor ejus. De priori nempe filio dolorem beneficio temporis jam sopitum, dolor iste sequens resuscitavit ; quoniam et tunc crudescere vulnera cceperunt quibus cicatricem diuturnitas obduxerat. Ictus quippe novissimus etiam veteres plerumque plagas dolore rescindit ; vulnus enim animi quod tempore et ratione curatum est, commemoratio rursus exulcerat. Unde et effectum est ut qui modo cum filiisvivere non poterat, sine filiis vivere jam recusaret. O quam dura, quam aspera sors ; quia de tantis patri pignoribus nihil omnino poterat nisi vel morte mceror, vel vita vexatio provenire ! Num et illud Osee huic adaptari potest : Si genuerint filios, absque patre faciam eos. Et infra : Quod si genuerit, interficiam amantissima uteri eorum.
  ――Giraldus Cambrensis”De instructione principum : Libri III” p.33-34

ガバ日本語訳(意訳・補足あり)

 苛立ちと苦痛という重荷に加え、数年後、時の経過によってその甚大な悲しみによる苦痛がひとまず和らぎ、不安や苦悩も多少和らいで少し息をつくことができた頃(この世の安らぎは長くは続かず、また喜びの極みには常に悲しみが続くものだからである)、 ブルターニュの著名な伯爵ジェフリーは、自身の領地とポワトゥー伯リチャードとの境界をめぐって生じた不和は和解の余地がなく、父からすでに三度目の完全な決別を遂げていた。彼は真っ先に弟を支持し、父ルイ7世に代わってすでにフランスで統治していたルイの息子フィリップの側についたからである。
 というのも、ヘンリー王の歪んだ本性とは、息子たちの間の不和を全力を挙げて煽り立て、助長することであり、彼らの争いから自分だけが平和と静けさを得られることを望んでいたからである。それゆえ、ジェフリー伯はフィリップ王およびフランスのすべての有力者たちを味方につけることに成功し、彼らの満場一致の賛成により、フランスの家令(セネシャル)に任命された。彼は、これほど大きな権力を握り、国王との親密な関係を享受していたため、その説得力ある言葉――彼は極めて雄弁であり、かつ極めて情に厚かった――によって、フランス王およびフランス全土を大いに煽動し、父と兄に対して反旗を翻させた。もし彼が死によってこの世を去っていなければ、これまでにないほどの動乱を引き起こしていたことだろう。というのも、これほど大きな動乱がすでに進行中であり、確固たる基盤を築きつつ、かつほぼ始まろうとしていたまさにその時、ジェフリー伯は数日後に、兄(若ヘンリー)と同じ急性かつ致命的な熱病に倒れ、8月のカレンダ前後(1186年8月19日)にパリでこの世を去ったからである。これはフランス全土、とりわけ国王にとって、この上ない悲しみとなった。フィリップ王は、彼の死、とりわけその突然の死に深く打ちひしがれていたため、パリの大聖堂、すなわち 聖母マリア大聖堂(現・ノートルダム大聖堂)、それも主祭壇の前で倒れてしまった。王は、敬意と愛情の証として、伯爵をそこに埋葬するよう命じた。そして、葬儀の儀式が執り行われ、伯爵の棺が墓に下ろされようとしていたその時、王は激しい悲しみのあまり、もし家臣たちに力ずくで引き止められていなければ、棺の横にある開かれた墓穴の中に自ら身を投じようとしていたほどであった。
 しかし、何よりも父ヘンリーの悲しみは比類なきものだった。彼ほどの悲しみは他にないからである。この新たな悲しみは、時間の経過によってすでに鎮まっていた長男(若ヘンリー)への悲しみを再び呼び覚ました。それ以来、年月が癒やし、覆い隠していた傷が再び疼き始めたのである。いわば、最新の打撃は往々にして古い傷口を再び引き裂くものである。時間と理性によって癒やされていた魂の傷は、その記憶そのものによって再び激痛を伴うからだ。それゆえ、かつて息子たちと共に生きることを叶えられなかった彼は、今や彼らなしでは生きることを拒むようになったのである。ああ、なんと過酷で、なんと苛酷な運命であろうか。父としての数多くの誓いから生まれたものは、死における悲しみか、生における苦悩かのいずれかしか得られなかったのだから!ホセア書の次の言葉も、この事態に当てはまるのだろうか。「もし彼らが息子を産んでも、わたしは彼らを父のない子(=孤児)とする」。さらにその先には、「もし彼らが産んだとしても、わたしは彼らの胎の最も愛する者を殺す」とある。

ざっくり解説&所感

 あっさりとフィリについたジェフリー、フィリどころかフランスの有力者を味方につけて家令(セネシャル)にまで至っているのは相当に気に入られている。それほどに彼が人身掌握に長けている証左であるのかもしれない。それは後に続く「もし彼が死によってこの世を去っていなければ、これまでにないほどの動乱を引き起こしていたことだろう」というくだりからも伺える。しかし熱病に侵され、急逝します。これは先日扱った”Gesta Philipi Augusti”で詳しく語られていますが、本題はここから。
 フィリ、とんでもなく打ちひしがれている。ノートルダム大聖堂の主祭壇の前で倒れてしまい、そこに埋葬するように命令。それに加え、葬儀が執り行われている最中、棺がおさまる墓穴に「自ら見を投じようとしていた」と。力尽くで止めた家臣大変だっただろうな……そしてフィリの「激情に突き動かされる一面」も垣間見えて、よき……

 まさかヘンリーⅡ世も悲嘆に暮れていたとは。文中にもあるように、若くして世を去った若ヘンリーのことも思い出してしまったようだし、死因も「熱病」と一緒だったから尚更。「かつて息子たちと共に生きることを叶えられなかった彼は、今や彼らなしでは生きることを拒むようになったのである」とありますが、事実3年後、ジョンがリチャに寝返ったのを踏まえると、皮肉というか哀しみというか……

 文末、ホセア書とありますが新約聖書を構成する文書の一つ。そしてラスト2文はそこからの引用です。よりにもよってこのあたりをチョイスするとは……

「 たとい彼らが子を育てても、わたしはその子を奪って、残る者のないようにする。わたしが彼らを離れるとき、彼らはわざわいだ。」(『ホセア書』9:12、口語訳)
「エフライムは撃たれ、その根は枯れて、実を結ばない。たとい彼らが子を産んでも、わたしはそのいつくしむ子らを殺す。」(『ホセア書』9:16、口語訳)

 それにしてもウェールズのジェラルド、この項目でのジェフリーにはちょっと甘い気がする。ジェフリがフィリのお気に入りだったからか……?

参考サイト

口語訳聖書,最終閲覧2026/09/09 https://www.wordproject.org/bibles/jp/index.htm
ヘッダー写真:Caroline Attwood(Unsplash)

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薔薇の心臓

リチャお誕生日おめでとう!
ということで「ジョンのなかみ」についての記事を。
リチャ誕生日になんてもの書いてるんだよって話ですが、よりにもよって今日見つけてしまったのはもうなにかの運命ってことで赦してください……

導入&文献紹介

さて、わたしがプラタジ兄弟だけでなくカペー家にも沼っていることは周知の事実(要出典)ですが、色々史料やら某フランス有名歴史雑誌の限定記事やら漁っていたら「ジョンも遺体と内臓を分けて埋葬していた」という記述を見付けてしまい、当時の年代記で裏取りまで出来たので記事にした次第。いやーだってその記述見るまで「ジョンの遺体が葬られたのはウスター大聖堂だけ」と、わたしも本気で思っていたので……

今回お世話になる文献は Walteri de Coventria著 William Stubbs編注 “Memoriale fratris Walteri de Coventria: The historical collections of Walter of Coventry”という歴史書の第2巻。ラテン語原文に英語の注釈がつけられている1872年に出版されたバージョンです。というか実際この版しかないっぽい。
以下のリンクからPDFでダウンロードして読めます。
https://books.google.co.jp/books?id=5nck9CTbX3EC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

原文&ガバ日本語訳

ラテン語原文(抜粋)

(Ibi igitur morbo invalescente, )diem clausit extremum xiiii kalendas . Novembris, postquam regnaverat annis xvii. mensibus v. diebus iiii.: princeps quidem magnus, sed minus felix, et cum Mario fortunam utramque expertus : munificus et liberalis in exteros, sed suorum deprædator, plus in alienis quam in suis confidens, unde et a suis ante finem derelictus est, et in fine modicum luctus. Et quoniam eum secuta fuerat armatorum multitudo qui fere omnes conductitii et exteri erant, convenerunt festinato ad locum, et funus regium sicut armatierant usque ad Wygorniam detulerunt, non quod ipse sepulturam ibi delegisset, sed quia is locus securior tunc temporis videretur, ubi fautores ejus convenirent quid facto opus esset deliberaturi . Intestina tamen ejus, eo quod corpulentior esset ,in domo Præmonstratensis ordinis que Croxtone vocatur condita sunt. ――Walter of Coventry “Memoriale fratris Walteri de Coventria” vol.2 p231-232

大雑把日本語訳(意訳・補足あり)

(そこで病状が悪化し、)彼は17年5ヶ月4日の統治の末、11月のカレンデスの14日目(1216年10月19日)に死去した。彼は実に偉大な君主であったが、運には恵まれなかった。外国人に対しては寛大で気前が良かったものの、自国民に対しては略奪者として振る舞い、身内よりも他人を信頼したため、最期を前にして自国民に見放され、その死に際しても誰からもほとんど悲しまれることはなかった。彼には多数の武装した従者が付き従っていたが、そのほとんどは雇われた外国人であった。彼らは急いで遺体を運び、武装したままウースターまで葬列を進めた。これは彼自身がそこへの埋葬を望んだからではなく、当時の情勢下ではそこがより安全な場所であり、今後の対応を協議するために支持者たちが集まるのに適していたからである。ただし、彼の遺体はずっしりとしていたため、その内臓はプレモントレ会が設立したクロクストン修道院に安置された。

解説?と所感

当時の年代記にも言われている「運には恵まれなかった」。やはり幸運E-は伊達じゃない。
注目すべきは遺体の運ばれた場所。ラテン語では”Wygorniam”となっていますが、これは現在のウースター。そう、我々がよく知る「ジョン王の墓」であるウスター大聖堂があるところ。当時は第一次バロン戦争の最中、ロンドンを始めとしたイングランド各地がフランス軍によって占領されていたので、彼はリンカンシャーにて崩御しています。そして海沿いではなく内陸であることもあったのか、ウースターが埋葬地に選定されたっぽい。あとイングランド各地からのアクセスがよさげ。
さて、今回の重要ポイントはここから。「(彼の)内臓はプレモントレ会が設立したクロクストン修道院に安置された」というくだりから、彼の遺体もまた兄リチャードと同じように「身体」「内蔵」と分けられ埋葬されたことが書かれています。まさかジョンもやっていたとは。どうやらクロクストン修道院長はかつてジョンの侍医を務めていた縁から、彼の遺体から内蔵を取り出し葬ったよう1。

ジョンの内蔵が葬られたクロクストン修道院の所在はレスターシャー州ですが、修道院は16世紀にヘンリーⅧ世が行った修道院解散で組織がなくなり、建物・敷地も小さな集落へと姿を変えています。ただ、没地であるリンカンシャーと埋葬地であるウースターのルートの間に位置しているので、そのあたりから色々伺える。Google Maps

プレモントレ会はシトー会に強い影響を受けたフランス発祥の修道会ですが、厳密には修道士ではなく司祭の集団だったり、会則が「聖ベネディクトゥス会則」ではなく「聖アウグスティヌス会則」だったりと、色々と異色だったりする。

おまけ?

(実は注釈にある”Les derniers jours de Jean sans Terre(ジョン・ラックランドの最期)”という記事がこの文献漁りをするきっかけになったのですが、一部「これジョンじゃなくてヘンリーⅢ世のことと、ごっちゃになってないか……?」と思うところがあったので、直接取り上げていません)

  1. “Les derniers jours de Jean sans Terre”,2026/09/08最終閲覧 https://www.lhistoire.fr/les-derniers-jours-de-jean-sans-terre ↩︎

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ジェフリーとフィリップ

 なんか最近すごくジェフリーとフィリップの関係に脳をじわじわと灼かれています。英訳版のフィリップの宮廷伝記である”The Deeds of Philip Augustus (原題:Gesta Philipi Augusti)”を読んでいて、ジェフリの死がフィリップに与えた衝撃がとんでもなくデカい感じがしたので抄訳を。

 今回の出典も安定のフォーダム大学の中世史資料集より。コーネル大学版の電子書籍もあり、そちらはそちらでまたちょっと味が違っておいしい。KindleだとWordwise機能でだいぶ読みやすくなってます。
 注意点として、底本となったWebページの文章のそこかしこに底本訳者による注が割り込む形で入っていたので、読みやすさ重視で長いと感じた部分は「※1〜3」という形で本文後に退避させています。予めご了承下さい。

原文

44.On the death of Geoffrey, count of Britanny
 At the same time as all this, it happened that the illustrious Geoffrey, count of Britanny, son of Henry (II) king of England, came to Paris and fell onto a bed of sickness. Phillip loved him very tenderly. When he heard of the illness, he summoned all the doctors dwelling in Paris at the time and ordered them to furnish all care and diligence they could to the count. Even so after a very few days of incessant labor by the doctors, on the 14th kalends September(※1), he went the way of all flesh. (※2) The citizens and knights of Paris guarded his body with honor and reverence in the church of St. Mary’s [Notre Dame] until the king arrived, while the church’s canons and clergy celebrated the funeral services most devotedly. The next day, the king came to Paris with Thibault, seneschal of France, and had his body preserved with aromatic herbs and buried in a lead sarcophagus before the great altar in the same church by the most reverend Maurice, bishop of Prais and an assembly of abbots, religious and clergy from all over the city.

※1:August 19 (or possibly 21) 1186.
※2:Geoffrey may have been preparing to defect to Phillip and do him homage for Britanny.

45.On the institution of four prebends
 Once the solemn burial rites were over, the most Christian king Phillip with count Thibault and count Henry and his mother the countess of Champagne and the former queen of England Margaret the king’s sister (※3) returned to the palace. The king suffered severely from the death of so great a prince. To console him, the princes just mentioned and many others followed him back. But in receiving consolation from his friends, he frequently recalled to memory the dead man’s most recent acts and turned his mind to works of piety and mercy, according to the accustomed generosity of his father, and so installed in perpetuity in the church of St. Mary just mentioned as where the count was buried, four priests for himself and the soul of his pious father Louis and for the soul of his beloved count of Britanny. He assigned from his own revenues sufficient rents for two of the priests, with the countess of Champagne and the chapter of St. Mary’s promising to assign rents for the third and fourth priests.

※3:she had not yet been taken off by the Hungarians

日本語訳(一部意訳・補足あり)

44.ブルターニュ伯ジェフリーの死
 こうした一連の出来事と時を同じくして、イングランド王ヘンリー(2世)の息子である、名高いブルターニュ伯ジェフリーがパリを訪れたが、病に倒れて床に伏した。フィリップは彼を深く愛していた。病の報せを聞くと、彼は当時パリにいたすべての医師を召集し、伯爵のためにあらゆる手立てを尽くし、献身的に治療にあたるよう命じた。しかし、医師たちの懸命な治療も虚しく、わずか数日後の8月19日(※1)、彼はこの世を去った。(※2) パリの市民や騎士たちは、王が到着するまで、聖マリア教会(現:ノートルダム大聖堂)にて敬意と畏敬の念をもって遺骸を警護し、教会の参事会員や聖職者たちは極めて敬虔に葬儀を執り行った。翌日、王は宮廷の家令であるティボーを伴ってパリに到着し、遺体を芳香のあるハーブで防腐処理させた後、パリ司教である尊きモーリスと、市内各地から集まった修道院長、修道士、聖職者たちによって、同教会の主祭壇前にて鉛の棺に納め、埋葬を執り行った。

※1:原文”on the 14th kalends September”はローマ歴法に則った日付の数え方。この場合はユリウス暦の1186年8月19日
※2:底本の訳者による注:ジェフリーはフィリップ王に寝返り、彼のブルターニュにおける支配権を認め臣従の誓いを立てる準備をしていた可能性がある

45.聖職禄の設置について
 厳粛な埋葬の儀式が終わると、敬虔な王フィリップは、家令ティボー、シャンパーニュ伯アンリ、その母であるシャンパーニュ伯夫人、そして王の姉であり元イングランド王(若ヘンリー)妃のマルグリット(※3)と共に宮殿へと戻った。王は、これほど偉大な諸侯の死に深く心を痛めていた。王を慰めるため、前述の諸侯たちやその他多くの人々が王に付き添い宮殿へ戻った。しかし、友人たちから慰めを受けながらも、彼はしばしば故人の最期の行いに思いを馳せ、父の常なる寛大さにならって、信心深く慈悲深い行いへと心を向けた。こうして、先述の通りブルターニュ伯が埋葬された聖マリア教会に、王自身と敬虔な父ルイの魂、そして最愛のブルターニュ伯の魂のために、4人の司祭を永続的に任命した。彼は自身の収入から、そのうち2人の司祭に十分な年金を割り当て、シャンパーニュ伯爵夫人と聖マリア教会の参事会が、3人目と4人目の司祭への年金を割り当てることを約束した。

※3:彼女はまだハンガリーへ連れ去られるまえであった

所感とかあれこれ

 いや、フィリップ、ジェフリーのことめちゃくちゃ気に入っていないか?寧ろ寵愛レベル。フィリップに鞍替えする準備をしていた可能性という注釈を踏まえると、ブルターニュがフランス領になる可能性もあったのか……たぶんそれが叶っていたら歴史が変わっていたかも。
 何故文中で「ブルターニュ公」ではなく「ブルターニュ伯」と表記されているのかは、この文献が「フィリップの宮廷伝記」という性質上「王の封臣ないしは諸侯」を強調するために「ブルターニュ公」に内包される「ブルターニュ伯」という下位称号で表記している可能性。リチャも同じで「アキテーヌ公」ではなく「ポワトゥー伯」という表記のほうが多めな感じがする。イングランドにおいては「王」であるが大陸ではフランス王の臣下である「公」「伯」の称号を帯びる諸侯のひとり、というプランタジネット家の複雑な立場が伺える。

 ちなみにこの記事を書くために参考資料としてこの前新装版が出たばかりのレジーヌ・ペルヌー著「リチャード獅子心王」を読んでたら衝撃的なくだりが。

父の計画にいつも不満であったブルターニュ伯ジェフリーは、フランス王からの招待を喜んで受け、フランス王の領土内で夏を過ごした。数週間の間、二人の若者は、食事でも狩りでも、それに続く饗宴でも馬上槍試合でも、どこでも一緒に過ごしていた。
――レジーヌ・ペルヌー・著 福本秀子・訳「リチャード獅子心王」白水社 p.69

 ……どんな顔をすればいいんだ、本当に。

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英仏両国の記録から見るアッコン包囲戦

暑いですね。夏。
さて今回も安定のフォーダム大学中世史資料集の2つの文献から「英仏両国の記録から見るアッコン包囲戦」を見ていこうかなと思います。

⚠注意
今回の史料は第3回十字軍におけるアッコン包囲戦、とくに「リチャード1世による捕虜の虐殺人数」にフォーカスしたセンシティブな内容となります。そういった事柄が苦手な方はブラウザバック推奨です。
大丈夫な方は次頁へとお進み下さい。

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ヘンリー2世の絵

流し読みしていたら美味しい?しんどみ溢れる文献を見付けてしまったので連続更新。
昨日からお世話になりすぎている米フォーダム大学 オンライン中世資料集”Internet Medieval Sourcebook“からです。
今回の出典は”De principis instructione(君主への訓戒)”という君主論を説く書物から。初版は1190年ころ、完全版の成立は1216〜17年頃らしいです。

そこから「ウィンチェスターの一室に描かれた絵」についてのエピソードを。

原文

But it happened that there was a chamber at Winchester beautiful with various painted figures and colours, and a certain place in it which was left clear by the royal command, where a little time after the king [Henry II] ordered an eagle to be painted, and four young ones of the eagle sitting upon it, two upon the two wings, and a third upon the middle of the body, the fourth, not less than the others, sitting upon the neck, and more keenly watching the moment to peck out the eyes of its parent. But being asked by those who were on intimate terms with him what this picture might mean, he said, “The four young ones of the eagle are my four sons, who will not cease to persecute me even unto death. The younger of them, whom I even now embrace with such tender affection, will sometime at the last insult me more grievously and more dangerously than all the others.”

日本語訳(一部意訳あり)

ウィンチェスターには、さまざまな人物画や色彩で美しく彩られた一室があった。その部屋には王命により敢えて何も描かれずに残された一画があった。しばらくして、ヘンリー2世はそこに一羽の鷲と、その体に止まる四羽の雛を描かせた。二羽は左右の翼に、一羽は胴体の中央に、そして四羽目は他の雛に引けを取らない大きさで首筋に止まり、親の目を嘴で抉り出そうとする隙を鋭い視線で狙っていた。親しい者たちから「この絵が何を意味するのか」と尋ねられると、王はこう答えた。「この四羽の雛は、私の四人の息子たちだ。私が死ぬまで彼らに苦しめられ続けるだろう。その中でも、今こうして私が深い愛情を込めて抱き締めている末の息子こそが、いつの日か他の誰よりも惨めかつ危険な形で、私を侮辱するだろうな」

いわゆる寓話ですね。

鷲:ヘンリー2世
4羽の雛:若ヘンリー・リチャード・ジェフリー・ジョン

そして雛のポジジョン的には
左右の翼の二羽:若ヘンリー・ジェフリー
胴体の中央の一羽(抱き締められている):ジョン
親鳥の目を嘴で抉り出す隙を狙う一羽:リチャード

かなと。あからさまだなリチャ。

そして最後の一文「その中でも、今こうして私が深い愛情を込めて抱き締めている末の息子こそが、いつの日か他の誰よりも惨めかつ危険な形で、私を侮辱するだろうな」はジョンに対する危惧でしょうが、初版成立年代が1190年頃・完全版成立年代が1216〜17年あたりであるのを踏まえると味わい深いものがあります。

この書物の著者である聖職者”Gerald of Wales(ウェールズのジェラルド)”はイングランドの王室書記官を務めていましたが、報酬に不満があったようで「イングランド王国への敵意」を募らせ、最終的には第一次バロン戦争でフランスがイングランドに上陸した際にはフランス支持に回っています。

要するに著者は「イングランド嫌いかつフランス支持者」といったバックグラウンド持ち。そういった著者の立場を踏まえて読んでみると、色々と別のものが見えてくるかなと。この書物は君主論……すなわち若き君主のための手引書であり、「善き君主・悪しき君主」を通じて君主として必要な徳目を教える、といった性質を持っています。なのでプランタジネット家の方々が「悪しき君主」としてとんでもなく貶されています。訳して戦慄した。

ヘンリー2世とその相続人達を「堕落した」とか「悪魔の血を引いている」とか「暴君」とか記述してます。すげえ。まあそりゃプランタジネット家嫌いだったらそう書くよな。そして妙にキレッキレの悪口。というかこの時代からこんなこと言われていたのかプランタジネット家……

そしてこんなことも。

Also Geoffrey, earl of Anjou, when seneschal of France, had carnally known queen Eleanor; of which, as it is said, he frequently forewarned his son Henry, cautioning and forbidding him in any wise to touch her, both because she was the wife of his lord, and because she had been known by his own father.
As it were to crown all these enormities, which were already too enormous, king Henry, as common report declared, dared by an adulterous intercourse to defile this so-called queen of France, and so took her away from her own husband, end actually married her himself. How then, I ask, from such an union could a fortunate race be born ?

日本語訳(一部意訳・情報補足あり)

また、アンジュー伯ジョフロワは、フランス王国の家令であった時にアリエノール王妃と肉体関係を持った。伝えられるところによると、彼は息子アンリ(ヘンリー2世)に、アリエノールが主君の妻であること、そしてアンリ自身の父親も彼女と関係を持っていたことを理由に、決して彼女に触れてはならないと繰り返し警告し、禁じていたという。すでに途方もないほどの数々の悪行に、さらに拍車をかけるかのように、広く伝えられているところによれば、ヘンリー2世はこのいわゆる「フランス王妃」を姦通によって汚すという大胆な行いに及び、彼女を夫(ルイ7世)の元から引き離し、実際に結婚してしまった。ならば、このような結婚から、どうして幸運な子孫が生まれることがあり得ようか、と私は問いたい。

けちょんけちょんすぎる。プランタジネット家憎しといえどもよくここまで書けるなぁと思う。
これ正直君主論の皮を被ったゴシップ書かな?と思ってしまった。

そしてリチャがこんなことを。

Moreover, king Richard was often accustomed to refer to this event; saying that it was no matter of wonder, if coming from such a race, sons should not cease to harass their parents, and brothers to quarrel amongst each other; for he knew that they all had come of the devil, and to the devil they would go. When, therefore, the root was in every way so corrupt, how was it possible that the branches from such a stock could be prosperous or virtuous?

日本語訳(一部意訳・情報補足あり)

さらに、リチャード王はこの出来事(ヘンリー2世の父アンジュー伯ジョフロワによる姦通・残虐な刑などなど)をしばしば引き合いに出し、そのような血筋から生まれた者たちが親を苦しめ続け、兄弟同士が争い合うのは不思議なことではない、と語っていた。なぜなら、王は彼ら全員が悪魔の血を引いており、やがて悪魔のもとへ帰っていくことを知っていたからである。それゆえ、根があらゆる点でこれほど腐敗している以上、そのような株から生えた枝が、どうして繁栄したり徳を備えたりできるというのか。

いやもうなんかすごいな。罪深き悪魔の血筋かぁ……言いそうだなぁFGOリチャなら……

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アッコン包囲戦におけるリチャードの戦法について

「リチャードが弓を使っていた」という話を(英訳版ですが)文献で裏取りしてきました。

結論としては「弓ではなく攻城兵器のバリスタだった」です。恐ろしい男だリチャ。

今回お世話になったのは米国フォーダム大学のオンライン資料集こと”Internet Medieval Sourcebook”。https://sourcebooks.fordham.edu/sbook.asp
余談ですがこの”Internet Medieval Sourcebook”、ヘンリーⅡ世あたりの資料も充実してます、あとリチャ戴冠式の文献もある。

その中から”Itinerarium Peregrinorum et Gesta Regis Ricardi:The Siege and Capture of Acre, 1191″。日本語に訳すなら「巡礼者の道程とリチャード王の事蹟:1191年、アッコンの包囲と陥落」です。「巡礼者の道程とリチャード王の事蹟」という1220年代に編纂されたラテン語散文歴史物語の中から、1191年アッコン包囲戦に言及したところをピックアップされたものとなります。実際の出来事から約30年後に記された歴史物語なので「まあそういう可能性があるんだな」的な感じで受け止めて貰えたらと思います。リチャだし。
1864年に出版された本が下記リンクの底本のようです。
https://sourcebooks.web.fordham.edu/source/1191acre.asp

さらに今回はそこから「リチャードがバリスタを使っていた」くだりを抜粋。
英訳版となりますが、原文は以下の通り。

King Richard had not yet fully recovered from his illness. He was anxious to be doing things and he was free especially to attend to the capture of the city. He saw to it therefore that the city was attacked by his men so that, perchance, by divine grace the deed might be accomplished in accord with his vow. He had a latticework shed (commonly called a “cercleia”) made. It was made solid with many joints, and when it had painstakingly been put together, he ordered it to be taken to the trench outside the city walls. When his most experienced balistarii were in position, he had himself carried out on a silken litter, so that the Saracens might be awed by his presence and also so that he could encourage his men for the fight. His balista, with which he was experienced, was then put into action and many were killed by the missiles and spears which he fired. His miners also made an underground passage to the tower at which his siege engines were firing. The miners sought out the foundations of the tower and hacked out part of it. They filled up the hole with timbers which they set afire. Then the repeated hits of the stone missiles suddenly knocked the tower to bits.
――Fordham University,”Medieval Sourcebook: Itinerarium Peregrinorum et Gesta Regis Ricardi:The Siege and Capture of Acre, 1191″より引用

こちらを訳すと以下の通り(一部意訳などを施しています)。

リチャード王は病から完全には回復していなかった。だが彼は何か行動を起こしたくてたまらず、そして都市の攻略に専念できる状況にあった。そこで彼は神の恩寵により自らの誓願が果たされることを願い、部下に都市への攻撃を命じた。彼は一般的に「セルクレア」と呼ばれる格子状の覆いが付いた小屋を作らせた。これは多くの接合部があり堅牢な造りで、入念な組立作業が終わると、彼は城壁の外にある堀へ運ばせるよう命じた。熟練のバリスタ射手たちが配置につくと、王は絹の輿に乗り外へ出た。この行動の目的は自身の姿を見せることでサラセン人を威圧すると同時に、戦闘に臨む己の部下たちを鼓舞するためであった。リチャード王自身も使い慣れたバリスタを駆使し、彼が放った石や槍などによって多くの敵を殺傷した。また、王の攻城兵器(=バリスタ)が狙いを定める塔へ通じる地下道を掘り進めた。鉱夫達は塔の基礎部分を探り当て、その一部を掘り崩した。出来た穴に木材を詰め込み、火を放った。やがて投射される石が繰り返し命中したことで、塔は突然粉々に崩れ落ちた。

さすリチャポイント

・病から完全に回復していない
アッコン包囲戦の途中、リチャードとフィリップは揃って脱毛症に罹患していた1。文献では「陣屋の外に出られない状態2」と書いてあるから相当なもの。万全なコンディションじゃないのに「何か行動を起こしたくてたまらず」はリチャだ……完全に……

・絹の輿に乗って登場
翻訳エンジンによっては「絹の担架」って訳されたりするけど、王なのでやはりここは「絹の輿」だろうなぁ。そして狙いは最前線で自らの姿を見せることでのサラセン人への威圧・自軍兵士の鼓舞。やっぱわかってるやんリチャ。

・しれっと自分もバリスタを使う
「使い慣れたバリスタ(His balista, with which he was experienced)」ってしっかり言及されてる。使い慣れてるって。しかもキルレ高そう。リチャだし。

・2方面作戦
地下から別働隊に道を掘らせて、塔の基礎部分の破壊工作。すごい用意周到。攻城戦やっぱ長けてるなぁリチャ。

と、ざっくりですが抄訳&さすリチャポイントを並べました。
素直な感想が「そりゃ戦の天才って呼ばれるわ……」しか出ない。

【余談】
ちなみにフィリップはその少し前の段落で作った攻城兵器群を破壊されて

On this account the French king was so overcome with wrath and rage that, so it is said, he fell into a fit of melancholy and, in his confusion and desolation he would not even mount a horse….

日本語訳

このため、フランス王は怒りと憤りに打ちひしがれ、伝えられるところによれば、憂鬱に陥り、混乱と絶望のあまり、馬に乗ることさえ拒んだという……。

ともっと可哀想なことになっていた。そりゃさっさと帰りたくもなる。

  1. 佐藤彰一.フランス中世史Ⅰ カペー朝の革新.名古屋大学出版会.2025.201p ↩︎
  2. 佐藤.201p ↩︎

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HS-8 しゃおほー年齢バレ 各言語版比較

しゃおほー年齢バレのシーン、EN/CN/KR/JP版対比
ガバガバ翻訳のガバガバ考察
懐黍離のネタバレあり
過去掲載したものからちょっと加筆修正


【EN版】
Zuo Le:’…He Sheng was promoted to an Intermediate Nongye Tianshi in the year 1101 at the age of seventeen.’
He Sheng:You—
Zuo Le:When I was looking through the intel on Dahuang, I checked the Tianshi Bureaus’ roster, and found you’re a year younger than me.
Zuo Le:So no need to act tough at such a critical juncture, boy.
He Sheng:Shao lai zhe tao1, do you normally speak like this back home?!
Zuo Le:I NEVER speak like this, xin qiu2!
Zuo Le:Enough talk, let’s go already!

【EN版私家訳】
ズオ・ラウ「……ホーシェン、1101年に十七歳で天師府中級農業天師に昇格。」
ホーシェン:きみ――
ズオ・ラウ:大荒城に来て資料を調べていた際に天師府の名簿を見ました。計算してみると、あなたは私よりも一つ年下です。
ズオ・ラウ:だから、こんな重大なときは強気にならなくていいんだよ、坊や。
ホーシェン:黙れ!家では普段こんな風に話すんですか!?
ズオ・ラウ:馬鹿、こんな話し方は絶対に3しません!
ズオ・ラウ:十分話したでしょう、もう行きますよ!

【CN版】
左乐:“……禾生,1101年晋升天师府中级农业天师,时年十七岁。”
禾生:你——
左乐:来大荒城查资料的时候,翻过天师府的名册,算下来,你比我小一岁。
左乐:禾生兄弟,危难关头,勿要逞强。
禾生:*炎国粗口*,你平时都这么讲话吗?
左乐:*炎国粗口*,我从来没这样讲过话!
左乐:少废话,一起走!

【CN版私家訳】
ズオ・ラウ「……ホーシェン、1101年に十七歳で天師府中級農業天師に昇格。」
ホーシェン:きみ――
ズオ・ラウ:大荒城に来て資料を調べていた際に天師府の名簿を見ました。計算してみると、あなたは私よりも一つ年下です。
ズオ・ラウ:ホーシェンくん。危険なときこそ、強がってはならない。
ホーシェン:*炎国スラング*!普段そんなふうに喋ってるんですか!?
ズオ・ラウ:*炎国スラング*!こんなふうに話したのは初めてです!
ズオ・ラウ:くだらないことはやめて、一緒に行きますよ!

【KR版】
좌락:“……화생, 1101년에 천사부 중급 농업천사로 승진, 당시 나이 17세.”
화생:너……
좌락:대황성에 자료를 조사하러 왔을 때, 천사부의 명부를 살펴봤습니다. 계산해 보니 저보다 1살 어리더군요.
좌락:화생, 위험하니까 무리하진 마라.
화생:*염국 욕설*, 그 말투는 뭐야 갑자기?
좌락:*염국 욕설*, 저도 이렇게 말한 건 처음입니다!
좌락:잡담은 여기까지, 서두르죠!

【KR版私家訳】
ズオ・ラウ「……ホーシェン、1101年に十七歳で天師府中級農業天師に昇格。」
ホーシェン:きみ――
ズオ・ラウ:大荒城に来て資料を調べていた際に天師府の名簿を見ました。計算してみると、あなたは私よりも一つ年下です。
ズオ・ラウ:ホーシェン君、危険だから無理はするな。
ホーシェン:*炎国スラング*、いきなりその言い方は何ですか?
ズオ・ラウ:*炎国スラング*、こんなふうに話したのは初めてです!
ズオ・ラウ:話はここまでにしましょう、急ぎますよ!

【JP版】
ズオ・ラウ「……ホーシェン、1101年に十七歳で天師府中級農業天師に昇格。」
ホーシェンえっ――
ズオ・ラウ:大荒城に来て資料を調べていた際に天師府の名簿を見ました。計算してみると、あなたは私よりも一つ年下です。
ズオ・ラウ:ホーシェン君、大変危険な場面なのだ。強がるな。
ホーシェン:*炎国スラング*、君は普段そんなしゃべり方なんですか?
ズオ・ラウ:*炎国スラング*、こんなしゃべり方は初めてです!
ズオ・ラウ:いいから、行きますよ!

【所感】
・EN版でのズオくん年上ムーブがすごい煽りっぷり
・わざわざ”you’re”と”me”を斜体にしているのが……ズオくんの感情こもってるね……
・CN版は底本になっているだけあって、結構わかりやすかった
・KR版のズオくん年上ムーブはちょっとやさしい、EN版ズオくんは見習ってもいい

【テキスト出典】
Arknights Story Text Viewer

  1. EN版以外での言語では「炎国スラング」として伏せ字 ↩︎
  2. 同上 ↩︎
  3. EN版原文で”I NEVER”と強調しているので、本記事では太字で強調 ↩︎

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