薔薇の心臓

リチャお誕生日おめでとう!
ということで「ジョンのなかみ」についての記事を。
リチャ誕生日になんてもの書いてるんだよって話ですが、よりにもよって今日見つけてしまったのはもうなにかの運命ってことで赦してください……

導入&文献紹介

さて、わたしがプラタジ兄弟だけでなくカペー家にも沼っていることは周知の事実(要出典)ですが、色々史料やら某フランス有名歴史雑誌の限定記事やら漁っていたら「ジョンも遺体と内臓を分けて埋葬していた」という記述を見付けてしまい、当時の年代記で裏取りまで出来たので記事にした次第。いやーだってその記述見るまで「ジョンの遺体が葬られたのはウスター大聖堂だけ」と、わたしも本気で思っていたので……

今回お世話になる文献は Walteri de Coventria著 William Stubbs編注 “Memoriale fratris Walteri de Coventria: The historical collections of Walter of Coventry”という歴史書の第2巻。ラテン語原文に英語の注釈がつけられている1872年に出版されたバージョンです。というか実際この版しかないっぽい。
以下のリンクからPDFでダウンロードして読めます。
https://books.google.co.jp/books?id=5nck9CTbX3EC&hl=ja&source=gbs_navlinks_s

原文&ガバ日本語訳

ラテン語原文(抜粋)

(Ibi igitur morbo invalescente, )diem clausit extremum xiiii kalendas . Novembris, postquam regnaverat annis xvii. mensibus v. diebus iiii.: princeps quidem magnus, sed minus felix, et cum Mario fortunam utramque expertus : munificus et liberalis in exteros, sed suorum deprædator, plus in alienis quam in suis confidens, unde et a suis ante finem derelictus est, et in fine modicum luctus. Et quoniam eum secuta fuerat armatorum multitudo qui fere omnes conductitii et exteri erant, convenerunt festinato ad locum, et funus regium sicut armatierant usque ad Wygorniam detulerunt, non quod ipse sepulturam ibi delegisset, sed quia is locus securior tunc temporis videretur, ubi fautores ejus convenirent quid facto opus esset deliberaturi . Intestina tamen ejus, eo quod corpulentior esset ,in domo Præmonstratensis ordinis que Croxtone vocatur condita sunt. ――Walter of Coventry “Memoriale fratris Walteri de Coventria” vol.2 p231-232

大雑把日本語訳(意訳・補足あり)

(そこで病状が悪化し、)彼は17年5ヶ月4日の統治の末、11月のカレンデスの14日目(1216年10月19日)に死去した。彼は実に偉大な君主であったが、運には恵まれなかった。外国人に対しては寛大で気前が良かったものの、自国民に対しては略奪者として振る舞い、身内よりも他人を信頼したため、最期を前にして自国民に見放され、その死に際しても誰からもほとんど悲しまれることはなかった。彼には多数の武装した従者が付き従っていたが、そのほとんどは雇われた外国人であった。彼らは急いで遺体を運び、武装したままウースターまで葬列を進めた。これは彼自身がそこへの埋葬を望んだからではなく、当時の情勢下ではそこがより安全な場所であり、今後の対応を協議するために支持者たちが集まるのに適していたからである。ただし、彼の遺体はずっしりとしていたため、その内臓はプレモントレ会が設立したクロクストン修道院に安置された。

解説?と所感

当時の年代記にも言われている「運には恵まれなかった」。やはり幸運E-は伊達じゃない。
注目すべきは遺体の運ばれた場所。ラテン語では”Wygorniam”となっていますが、これは現在のウースター。そう、我々がよく知る「ジョン王の墓」であるウスター大聖堂があるところ。当時は第一次バロン戦争の最中、ロンドンを始めとしたイングランド各地がフランス軍によって占領されていたので、彼はリンカンシャーにて崩御しています。そして海沿いではなく内陸であることもあったのか、ウースターが埋葬地に選定されたっぽい。あとイングランド各地からのアクセスがよさげ。
さて、今回の重要ポイントはここから。「(彼の)内臓はプレモントレ会が設立したクロクストン修道院に安置された」というくだりから、彼の遺体もまた兄リチャードと同じように「身体」「内蔵」と分けられ埋葬されたことが書かれています。まさかジョンもやっていたとは。どうやらクロクストン修道院長はかつてジョンの侍医を務めていた縁から、彼の遺体から内蔵を取り出し葬ったよう1。

ジョンの内蔵が葬られたクロクストン修道院の所在はレスターシャー州ですが、修道院は16世紀にヘンリーⅧ世が行った修道院解散で組織がなくなり、建物・敷地も小さな集落へと姿を変えています。ただ、没地であるリンカンシャーと埋葬地であるウースターのルートの間に位置しているので、そのあたりから色々伺える。Google Maps

プレモントレ会はシトー会に強い影響を受けたフランス発祥の修道会ですが、厳密には修道士ではなく司祭の集団だったり、会則が「聖ベネディクトゥス会則」ではなく「聖アウグスティヌス会則」だったりと、色々と異色だったりする。

おまけ?

(実は注釈にある”Les derniers jours de Jean sans Terre(ジョン・ラックランドの最期)”という記事がこの文献漁りをするきっかけになったのですが、一部「これジョンじゃなくてヘンリーⅢ世のことと、ごっちゃになってないか……?」と思うところがあったので、直接取り上げていません)

  1. “Les derniers jours de Jean sans Terre”,2026/09/08最終閲覧 https://www.lhistoire.fr/les-derniers-jours-de-jean-sans-terre ↩︎

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